このフレーズだけで、体を左右に揺らしながら歌うミュースちゃんを思い出して鼻息が荒くなる人も多いのではないだろうか。言うまでもないが、これは京都アニメーション製作の2014年秋アニメ『天城ブリリアントパーク』第9話の挿入歌である『素晴ラシキFUN!TASY』のサビの出だしである。
サビのメロディーの中毒性やミュースちゃんの太ももの印象が強いためスルーされがちなのだが、実はこの曲、歌詞が意外と示唆的なのだ。
◆
例えば、一番のシルフィーちゃんが歌う
曖昧なもの 排除してると 折れちゃう心 またUNLUCKY!?
というフレーズを眺めてみよう。どんな事柄に対しても、とにかく“白黒”、“善悪”、“因果”、“右左”、“ゼロイチ”が決まらないと気が済まない、「曖昧さという複雑性を受け入れる器量のない脆弱な実存を抱えた人々」に対する緩やかなアドバイスとみることができないだろうか。
“世界はそんなに単純じゃないよ。自分が「クソだ!」って思ってることが相手にとっては「最高!」だったり、良かれと思ってやったことが友達を傷つけちゃったり、「敵を潰したぜ!」と思いきや状況はもっと酷くなったり。そんなの日常茶飯事じゃん。なのに、ヒステリックに自分の気に食わないものを排除して、わかりやすーい極端なものばっかり集めて自分のヒヨワな実存を守っているようなヘタレばっかり。だっさー。それでいいの?その先あるのはディストピアだと思うよ。”
そう諭してくれているのではないか。
別のフレーズを取り上げよう
ほら当たり前は 偶然じゃなく 奇跡なんだってば 信じてみてよ
ラストサビ前である。
「当たり前」とはなんだろうか。その直前のフレーズを振り返ってみよう。雨が降ること、風が吹くこと、大地が支えてくれること、灯火が照らしてくれること。そう、「当たり前」とは、この〈世界〉そのものであり、この世界を主観的に生きる〈私〉という存在である。
「なぜ世界はこの世界であり別の世界でないのか」
「なぜ私は私でありアナタではないのか」
もちろん、神を措定すればわかりやすい答えを与えることができるだろう。しかし、かの哲学者カントが言ったように、地道に前提を辿っていく作法では、永久にこれらの問の答えにはたどり着けない。
世界は、私は、本質的に未規定なのだ。*1
“この世界も、そしてこの私も、誰か(何か)がそう決めたわけじゃなくただここに存在する。それだけなんだよ。でもこの事実ってすごくない?そりゃぁ「神様が世界(私)を作ったんだ!」と思い込んだり、「いや、この世界ができたのも私が生まれたのも単なる偶然さ。別にこの世界(私)じゃなくてもいいんだよ」と開き直ったりもできると思うよ。でもさ、いくらそうやったって、神様の存在証明はできないし、私は私じゃん?だったらいっそ、この「奇跡」をありのまま感じ取ろうよ。そうすれば私達は胸を張って生きていけるはずだよ。“
そんなメッセージがこのフレーズには込められているのではないだろうか。
◆
代わり映えのない現実。そんな現実も、この「奇跡」の上にあるのだ。
脆弱な実存を捨て、世界の複雑さと事実性を受け入れよ。
さすれば、現実も、ふとした瞬間に幻想的で強度(FUN!)溢れるものに変容しうる。
スバラ スバラ 素晴ラシキFUN!TASY あげる
現実と幻想の パラレルワールド
まさしく、僕達の生きる世界は「素晴ラシキFUN!TASY」なのである。
*1: 詳しくは宮台真司著『「世界」はそもそもデタラメである 』、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』などを参照のこと。
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例えば、一番のシルフィーちゃんが歌う
曖昧なもの 排除してると 折れちゃう心 またUNLUCKY!?
というフレーズを眺めてみよう。どんな事柄に対しても、とにかく“白黒”、“善悪”、“因果”、“右左”、“ゼロイチ”が決まらないと気が済まない、「曖昧さという複雑性を受け入れる器量のない脆弱な実存を抱えた人々」に対する緩やかなアドバイスとみることができないだろうか。
“世界はそんなに単純じゃないよ。自分が「クソだ!」って思ってることが相手にとっては「最高!」だったり、良かれと思ってやったことが友達を傷つけちゃったり、「敵を潰したぜ!」と思いきや状況はもっと酷くなったり。そんなの日常茶飯事じゃん。なのに、ヒステリックに自分の気に食わないものを排除して、わかりやすーい極端なものばっかり集めて自分のヒヨワな実存を守っているようなヘタレばっかり。だっさー。それでいいの?その先あるのはディストピアだと思うよ。”
別のフレーズを取り上げよう
ほら当たり前は 偶然じゃなく 奇跡なんだってば 信じてみてよ
ラストサビ前である。
「当たり前」とはなんだろうか。その直前のフレーズを振り返ってみよう。雨が降ること、風が吹くこと、大地が支えてくれること、灯火が照らしてくれること。そう、「当たり前」とは、この〈世界〉そのものであり、この世界を主観的に生きる〈私〉という存在である。
「なぜ世界はこの世界であり別の世界でないのか」
「なぜ私は私でありアナタではないのか」
もちろん、神を措定すればわかりやすい答えを与えることができるだろう。しかし、かの哲学者カントが言ったように、地道に前提を辿っていく作法では、永久にこれらの問の答えにはたどり着けない。
世界は、私は、本質的に未規定なのだ。*1
“この世界も、そしてこの私も、誰か(何か)がそう決めたわけじゃなくただここに存在する。それだけなんだよ。でもこの事実ってすごくない?そりゃぁ「神様が世界(私)を作ったんだ!」と思い込んだり、「いや、この世界ができたのも私が生まれたのも単なる偶然さ。別にこの世界(私)じゃなくてもいいんだよ」と開き直ったりもできると思うよ。でもさ、いくらそうやったって、神様の存在証明はできないし、私は私じゃん?だったらいっそ、この「奇跡」をありのまま感じ取ろうよ。そうすれば私達は胸を張って生きていけるはずだよ。“
そんなメッセージがこのフレーズには込められているのではないだろうか。
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代わり映えのない現実。そんな現実も、この「奇跡」の上にあるのだ。
脆弱な実存を捨て、世界の複雑さと事実性を受け入れよ。
さすれば、現実も、ふとした瞬間に幻想的で強度(FUN!)溢れるものに変容しうる。
スバラ スバラ 素晴ラシキFUN!TASY あげる
現実と幻想の パラレルワールド
まさしく、僕達の生きる世界は「素晴ラシキFUN!TASY」なのである。